ひとつ
突然、恐怖に包まれることがある。
精神的には決して包まれる、なんてあたたかな抱擁は一切合切ないので包まれる、という言葉よりは刺されるというほうが適切な表現だ。
こんな表現の遠回し、茶番を序文に書かないといけないくらいに、直接相対することのできない恐怖。
しかし悔しいながらも全知と胸を張れるほどの教養を頭の中に収納していないので、僕にはこの恐怖をこれと言い表すことができない。
そんな輪郭のみえない恐怖をそのまま並べるとするならば、置かれるのは他者の自己に対する認識だ。
くどく言わずに簡単に言うならば、「僕は本当は嫌われているんじゃないか」という「予感」「可能性」を考えて、もしそれが妄想ではなく現実として行われてたらと思考する「思想」。
物語のように、人間の心理が空間に描写されるわけでも、俯瞰することができるわけでもないから、その思想が嘘か誠かは少なくとも自分はわからない。
だからはたから見れば、形のないものに恐怖するという一種の愚行で嗤われるのだろう、しかし僕のような心の弱い人間性は形がないからこそ恐れてしまう。
やがて時間が拭ってくれるのだけど、きれいになって、忘れたころに、思い出したかのように恐怖が水面に深く飛び込んで、波紋を広げていく。
僕はいまだに泳ぎ方を知らない。
呼吸の仕方も、潜ることも、目を開けることもできない。
ただ水の感触を感じることしかできない。
しかし最近、ようやく息継ぎだけできるようになった気がする。
今のところ断言できるのは、僕の人間性の根底にある一つとして、「自己犠牲」がある。これを思想の中に入れると、恐怖を恐れるのではなく、恐れていると硝子越しに見ることができる。
つまりは、「この人になら嫌われていると思われてもいい」「この人なら裏切られてもいい」「この人なら殺されてもいい」という具合に、受け入れるでもない、悟でもない醜悪な違うベクトルの信頼を心に宿す。
そうすれば仮に宿した信頼の炎が消えても、やっぱり消えたかと、それこそ物語の文面をなぞるように、あるいは読み上げるようにあるべくして、おこるべくして起きたものと肯定することができる。
いまだに自分を表現することはできないし、自分が何を欲求しているのかもわからない、生き方も意味も目的も、余白のまま。
そしてその余白を埋める気もない。
それでいいと思うようになった。
余白がもたらすのは自分以外の何かがもたらす可能性、そして僕が言う可能性というものの正体は自分以外の誰か。
「誰かのために生きてみたい」
漂白された、まぎれもない僕の心。
くさいけど、具現化するからそうなだけで、普段雑踏の中生きる僕以外の我々も、それを所思して歩いていると思う。